自分が死んだ瞬間、ポケットの財布には、いくらの金が入っているだろう? 1万円かな? いや、5万円ぐらいは入ってる時もあるか? でも10万円は財布には入れないな。
では、銀行にはいくらあるか? 100万円? 1000万円? でも1億は、絶対にないな。

死ぬ時に残っていると思う金額以内なら、いま使う
棺桶に入って動けなくなって、もうポケットの金を使うことができなくなってしまった時、残っていた金はどうなるんだろう? 自分と一緒に焼かれてしまうのか? 実際に焼かれて灰にはならなくても、自分にとってはもう意味のない存在なら、焼かれて消えたのと同じことだ。

火葬場で焼かれる時に、財布に1万円ぐらいは残っているだろう。ならば、その1万円は、「今」使ってしまうべきだ。どうせ焼かれてしまう(意味を失う)のだから。
それでも人は、どんなに先が短くなっても、未来に対する不安から、本能的に、「今」をガマンして、あるかどうかも分からない「将来」のために備えようとする。
この「本能」が備わっているから、人類はここまで生き延びてこれたんだろう。でも還暦も過ぎて、もうそんなに長く生き延びる必要もなくなってきたのなら、「将来」のために「今」をガマンしなくていい。
だから私は、モノを買ったり、何かをして金を使うのを迷った時、今はこんなふうに考えるようにしている。
「この金額は、オレが死ぬ時にポケットにあるよな。だったら今、使ってしまおう」
その1万円、いつ使うか? 今でしょ!
先日、桜の樹皮で作られた樺細工(かばざいく)の珍しい茶筒を見つけた。ひと目見て「これイイな!」と思って値札を見ると「1万円」と書かれている。茶筒1個が1万円!? 実用だけの茶筒なら100均にも売っているが、それの100個分だ。さて、どうする?

樺細工の茶筒を見つけた
少し迷ったが、結局、その茶筒を買うことにした。常滑焼の急須によく合いそうだったので。その時に考えたのが、先ほど出てきた「自分が死ぬ時に1万円はあるか?」だ。

確かに茶筒1個に1万円は、機能だけを考えれば高い。しかし、1万円という金額自体は、今の自分に払えない金額ではない。そして、死ぬ時にもポケットに1万円ぐらいは入っているはずだ。ならば、その1万円を、生きてる間に「茶筒」に使うか、別の何かに使うか、だけの違いに過ぎない。そして、何にも使わなければ、燃えて消えていくだけだ。
1万円は、茶筒に払うと考えれば高く感じるが、ゴルフのドライバーだとむしろ格安だ。そしてどっちに払おうが、「生きている間に1万円を使う」ということに変わりはない。ならば、自分が今、より心を動かされたものに迷わず投じればいい。

ドライバーが1万円なら「格安」だ
そう考える習慣をつけることで、日常生活での迷いはほぼ消える。数十万円の高い買い物でも、「死ぬ時に100万ぐらいは残ってるだろう」と考えれば、すべて「Go!」となる。
天に昇りながら、「あの時、なんであれを買わなかったんだ! いま、それぐらいの金は十分残ってるのに」と後悔しても、もう遅いのだ。

ベストセラー『DIE WITH ZERO』の真実
数年前に読んだビル・パーキンスの『DIE WITH ZERO』。死ぬ時にちょうど金がゼロになるように、貯めるばかりでなく積極的に使え、と説く。しかし、人生最期の瞬間と、金を使い切るタイミングを同期させるというのは、死期を予期できない人間にとっては不可能に近い。
そこで、それを少しでも実現するために、常に自分にこう問えばいい。
「いま自分が使おうとしている金額は、自分が死ぬ瞬間に自分の口座に残っているか?」
「残っている」と思える金額であれば、どんどん使っていけばいい。それを繰り返すことで、結果として死ぬ時の残高はゼロに近づいていく。
例えば、今の銀行残高が100万円あるとする。これは自分が死んだら使途のない金であり、意味を失う。ならば今、50万円で海外旅行に行きたければ、迷わず行くべきだ。それでもまだ50万円は残る。さらに旅先で、そこでしか出会えない10万円のお土産があったら、それも迷わず買うべきだ。だって、それでもまだ40万円残るのだから。

これを実行し続けて、最後に「もうこれ以上、残高はない!」というところまでいったら、そこで初めて年金の範囲内で慎ましい生活を始めればよい。それまでは、残したらどうせ燃えてしまう金を、後生大事に守っていても仕方ない。
還暦からはすべてが「一期一会」。人も、モノも、場所も
「一期一会」という言葉。残り時間が少なくなってきた還暦の人間にとって、これは人との出会いだけではない。欲しいモノ、行きたい場所、すべてにおいて「一期一会」なのだ。
「今度買おう」「次に来た時に行こう」は、還暦以降は「もう一生ない」と同義だと思った方がいい。今買わなければ、今行かなければ、もう次に出会うことはない、という意味では、モノや場所に対しても、人との出会いの場合と同じだ。
だからすべての「出会い」に対して、金のことで躊躇するのはもうやめよう。どうせそれぐらいの金は、最後にポケットに残っているだろうから。
もう、「次」はない真剣勝負
子供のころ、100円のアイスクリームは高くて買えず、50円のアイスでガマンした。就職して自分で稼げるようになった時に、100円のアイスを躊躇せず買えるようになって、「自分も大人になったな」と実感した。

100円のアイスは買えなかった
還暦を迎え、教育費や住宅ローン・貯蓄など、将来のための支出がなくなった今は、現役時代より、欲しいと思ったものを買う余裕はさらに増してるはずだ。逆に、金を使える残り時間はどんどん減っていくので、ガマンしている時間の方が「無駄」だ。

若いころは、旅先で「今回は寄れないけど、次に来た時はあそこも行こう」と先延ばしにすることもできた。しかし今は、その「次」はもうない。限られた残り時間の中で、また同じ場所を訪れるより、まだ見ぬ別の場所を選ぶだろうから。
旅先の路地一本。一足伸ばして行っておかないと、二度とその路地の先を見ることはない。そう思えば、なにげない街角や、日々出会う一つ一つのモノが、すべて「一期一会」の真剣勝負なのだ。
もし私があの時、樺細工の茶筒を買わなかったら、使わなかった1万円は、私が火葬場で焼かれるとき、ポケットで静かに出番を待っていたことだろう。その1万円を、死に金にするか、生き金にするか?
茶筒から立ち昇る茶葉の香りを楽しみながら、常滑焼の急須で淹れたお茶を飲んだ時、ポケットの1万円札を「生きた金」として救出した自分の判断が正しかったことを、改めて確信した。

常滑焼の急須に合う茶筒がそろった

