人は皆、年に一度、主役になる日が公平にやってくる。それが誕生日だ。
「お誕生日席」という言葉があるように、集団のなかで自分が主賓になる特別な日。一年間無事に過ごすことができ、嬉しいことや悲しいことが色々ありながらも、今年もまた一つ歳を重ねることができたことを皆で祝う日。
しかし、その意味合いは人生の中での時期によって変わってくる。
私のようなアラ還になると、「また一つ歳をとってしまった・・・。残りはあと何回あるんだろう?」とカウントダウンの心境に入る。
社会に出て、人生の階段を駆け上がっていく20代から30代のころは、目の前の人生に夢中で、子供の誕生日は盛大に祝っても、自分の誕生日に特別な感慨を抱く余裕もないかもしれない。

自分より子供優先の時期も
歳をとることが嬉しかった少年時代もあった。早く大きくなりたい、大人になりたい。そして誰にも制約されず、自分の好きなことを好きなようにやりたい、と。
そして、赤ん坊のころは、まさしく一年一年の重みがとても大きく、1才が2才になるのは倍の成長だし、2才が3才になるのでも5割増しだ。
そういう一年一年が大きな意味を持つ幼少期の誕生日プレゼントに子供に何を与えるか?ということは、実際の効果はさておき、親としての子供への大きなメッセージが込められているのではないか?
私の場合、下の娘には本人が欲しがるものをそのまま言いなりに与えた。嫌われたくなかったので。しかし、上の息子には、決して本人が欲しがるものではなく、少し(あるいはかなり)先に必要となるであろう、あえて無理目のものを先んじて与え続けた。20歳になるまでの20年間、毎年。
1歳の誕生日に与えた「将棋セット」は、嫁からは「1歳児が将棋なんかできるわけないでしょ!」と言われ、案の定、長い間、駒は口に入れてなめるだけの道具であった。それでも物心ついた時から将棋セットが身近にあるという環境は、何かの足しにはなったのではないか?と私は勝手に思っている。そして幼稚園に入るころには、一応将棋を指すようになっていた。残念ながらその後将棋にハマって、藤井名人のようになることはなかったが。

舐めるための将棋の駒
そして、2歳の時は地球儀、3歳では天体望遠鏡、というように、赤ん坊にとっては迷惑以外の何ものでもなかったと思われるものを与え続けた。

グルグル回すためだけの地球儀

遊び方すら思いつかない天体望遠鏡
誕生日プレゼントに限らず、子供のレベルに迎合して合わせるのではなく、常にやや無理目の先をいく。例えば、「夕焼けお空はなぜ赤いの?」と子供にきかれたら、
「それはね、神様が真っ赤な絵の具をこぼしちゃったからだよ~」などという子供だましの説明ではなく、
「太陽光線が地球を覆う空気の層を通過する際、入射角が浅い夕方では距離が長くなるため、波長の長い赤色しか地表まで届かないからである」と答える。
子供が理解できていようが、いなかろうが。いずれ父親の言っていたことの意味が分かる日が来ると信じて。そういうことを続けることで幼少期の脳の発達を促進し、同年代の子供より知能指数が高くなる(はずだ・・・笑)。
「先んじて与える」という原則の唯一の例外は、20歳の時に最後の誕生日プレゼントとして渡した「バカラのビールグラス」か?
さすがにこればかりは先に与えて未成年に酒を飲ませるわけにはいかないので「同時」になった(笑)。でも「バカラ」の部分は先取りだと思っている。ハタチの大学生の分際で、バカラのグラスで酒を飲んでるヤツもそうそういないだろうから。
「桃太郎の読み聞かせ」に続き、「コレで私は息子を東大に入れました⁉」(禁煙パイポのCM風に)
皆さんもよければお試しを。20年間プレゼントを考えるのは、結構、大変ですが・・・
