地球にとって人類はガン細胞のような存在だ

総帥の独り言

地球にとって人類はガン細胞のような存在だ。どんなところにでも巣くって、侵食していく。体中にガン細胞がどんどん転移していくように、地球上のあらゆる場所に人間がはびこり、そこで木を伐り、土を掘り返し、動食物を摂取してきた。地球を破壊し、蝕んできたのだ。人類誕生以来、何万年もかけて行われてきたこの「ガン細胞の増殖」によって、ついに地球の命がもたなくなってきた。46億年生きてきた地球を、たかだか20万年前に生まれた人類があっという間に犯した。

地球の年齢を1年に置き換えると人類が誕生したのは12月31日午後11時37分に相当するらしい。つまり、ほんのついさっき生まれたばかりの種が大先輩である地球をあっという間に変えてしまったのだ。しかも、人類の20万年の歴史のなかでも、地球環境にまで影響を及ぼす規模になったのは、産業革命以降のたかだか数百年なので、ほんの数秒に該当する出来事だ。これが今日の地球環境問題の姿だ。

このあまりにも壮大なテーマに対して、現在の我々個人ができることは、逆にあまりにも微力だ。「コスモクリーナー」のような画期的な発明でもない限り、今を生きる全人類が、日常生活の中で、些細な取り組みを毎日積み上げていくほかない。80億人全員で10年、20年、100年、1000年と続けていくしかない。人類誕生以来20万年の所業を取り返すのだから、それ以上の時間がかかるのかもしれないが・・・

人間が資源を採取して、モノを作り、それを消費して、ゴミとして捨てる。この一連のサイクルの中に、資源問題、CO2問題、ゴミ問題、という環境問題の多くが含まれる。だから環境問題の解決には、我々、一人ひとりの消費行動を変えるしかないだろう。

しかし、一度身についた大量生産・大量消費のクセは簡単には抜けない。「何十万円もかけて修理するより、新しく買った方がいいですよ!」 先日、長年愛用しているキャンピングカーがとうとう故障してディーラーに持ち込んだ時に言われた言葉だ。今は、家電や日用品が故障してもメーカー自身が修理より買い替えを強く促す。自分たちが作って売ったモノなのに、そこには自社製品に対する愛着や責任は感じられない。

リサイクルには新品を作るより多額の手間やコストがかかるのは事実だろう。分別、回収、再生産、再利用・・・と。だから、経済合理性が行動規準である営利企業自身に根本的な対応を求めるのは限界があるだろう。

先週、街で「もったいない」と車体に大きく書かれたゴミ収集車を見かけた。その時、とても清々しい気持ちになった。日本には古くからあるこの単語が、英語にはないらしい。単語がないということは、そういう概念そのものがないということだ。しかし日本には、昔からイイモノに手を加えながら長く使う、という良き風習があった。「器の金継ぎ」や「着物の仕立て直し」などが普通に行われていたのだ。

人であれモノであれ、手間をかけても最後まで使い続け、与えられた寿命を全うさせてやりたい。人間なら、まだまだやれるのに引退させられたり、ましてや殺されたりするのは、当然、イヤだ。モノも同じ。せっかく○○として生まれたのだから、最後まで使い切ってその役割を果たさせてやりたい。

ただそれだけ。「もったいない精神」の根底は、そういうモノに対する「愛着」のはず。

ちょっと故障したら修理もせずにすぐ捨てて新品を買うのは、手術すれば助かるかもしれない老親を、手術代が高いから見殺しにするのと同じではないか? 自分の近親者なら「いくら金がかかってもいいから助けてください!」と言うはずだ。長年ともに過ごした愛着のあるモノも同じ。私もディーラーの反対を押し切って、またすぐ故障するかも分からないオンボロ車を60万円かけて修理した。

自分もいずれ、「人間」としての現世を終えて、また元の素粒子に戻り、次は、この「鉛筆」として再結合するかもしれない。そう思って眺めると、手元の鉛筆一本でも愛おしい・・・

あれっ!?

珍しく硬派な社会問題についてマジメに書いて、最後までどこにも笑いがないぞ?? お笑い系がダメだから、社会派ライターに転向か?(笑)

理由は、また、いずれ・・・

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