今のご時世、「ルッキズム」はいけないらしい。
ルッキズムというこの耳慣れない言葉、「外見重視主義」「美貌差別」などのことで、要するに、人を見た目だけで判断してはいけない、中身をちゃんと見よう、ということのようだ。インスタなどのSNSで写真や動画の「見映え」ばかりが重視される最近の世相に対する警鐘なのであろう。
それはとてもよく分かる。私も、中身のない上っ面だけの人間は大嫌いだ。が、しかし、逆に「行きすぎたルッキズム批判」がいずれもたらすものは?「見た目」の次に今度は何が封じられるのか?それは「かしこさ、頭の良さ」になったりしないか?
運動会の徒競走で順位をつけずに皆で仲良くお手てをつないで一緒にゴールしましょう。可愛いとかブスとか、人を見た目で差別してはいけません。そして次は、人を頭の良さで判断してはいけません。差がつくテストはやめて、通知表は全員オール3にしましょう。
そういう馬鹿げた世界にならないか?
そもそも人間にとって、「顔の良さ」と「頭の良さ」とは、単に頭蓋骨で隔てた「外側が強い」か「内側が強い」かという違いに過ぎない。
「外側(=顔)」が強い人は、そのルックスを生かして生きてゆき、「内側(=脳みそ)」が強い人は、頭の良さを生かして生きてゆく。頭蓋骨の外か内か、どちら側の強みを使っているかの違いだけ。それを外側の力は使っちゃだめだけど、内側はいい、という理屈もない。
どだい人間は、自分に与えられたわずかな優位性を武器にして生きていくしかないのだ。他人よりほんの少し優れた部分があればそれを伸ばして、より強力な武器に仕立てて生存競争を生き抜いていく。足が人より1秒も速ければ世界をとれるし、IQが平均より20も高ければ秀才だ(東大生の平均IQは120程度だそうだ)。それが自分にとっての力であり、その力を頼りに生きていく。
生物の生存競争というシンプルな世界においては、結局「力」が支配している。「力」とは何も「腕力」だけではない。「知力」「体力」「徳力?」「人間力」・・・みんな「ちから」である。その中で自分に最も優位性のある力を使って闘う。どの「ちから」を使うにせよ、最終的には「ちからの勝負」であることに変わりはない。
現代社会は「知力」に秀でている者が有利な社会である。少なくとも平時においては、「腕力」が支配する世界から、「知力」で代理戦争をする世界に進化?してきた。銃弾を貨幣に代えて、本物の戦争から経済戦争へと。もちろん現代でも、いざとなれば腕力が支配する世界に一瞬で逆戻りしてしまうのはロシアや中東を見れば明らかだが、、、
なので、再び「北斗の拳」の世界のように「腕力」だけが支配する世界になれば、「知力」など屁の突っ張りにもならない。デカくて腕力が強いただのバカに、青白く非力なインテリなど、一瞬のうちに抹殺されてしまう。理屈や善悪など通用しない。瞬殺である。
逆にそういう意味では、現代で頭がいいのは、拳法の達人であるケンシロウと同じ心境で日々生きているのかもしれない。ひ弱だけど頭さえよければ、どこに行っても怖いものはなく、「ザコども、どこからでもかかってこい!」という気持ちで道を闊歩している。今だから許されているだけかもしれないのに・・・
「ルッキズム」の次は「クレバリズム」(クレバー(clever)+ism)とでも言いだして頭の良さも否定しにかかるのか?そしてそのあとに残るものは・・・
頭蓋骨の外側を封じた次は内側も封じ、凡庸ばかりの悪平等の世界。
いずれ、そんな世界が来るのか?・・・