広末涼子の傷害事件に関する記事で、『ペイハラ』という単語を初めて目にして気になった。また新たなハラスメントが生まれたのか?と。
『ペイハラ』とは「ペイシェント(患者)ハラスメント」のことで、患者による医療・福祉従事者へのハラスメント行為のことだそうだ。不勉強な私はまったく知らなかったが、業界では以前から深刻な問題になっているそうだ。
セクハラ、パワハラに始まり、カスハラ、モラハラ、マタハラ、アルハラ、スメハラ・・
なんでもかんでも「○○ハラスメント」と名付けるハラスメント全盛時代。
一般社団法人「日本ハラスメント協会」なるものまであるようで、そこが開示している「ハラスメント種類一覧 最新(2025年版)」によると、『ロジハラ』『ホワハラ』『コミュハラ』『ダイハラ』などなど、ありとあらゆるものをハラスメントとして定義している。
ちなみに、
『ロジハラ』とは、ロジカルハラスメントの略で、正論や論理的な言葉によって相手を追い詰める行為
『ホワハラ』は、ホワイトハラスメントのことで、上司が部下の意志に反して一方的に甘い職場環境を与える行為
『コミュハラ』とは、他人とコミュニケーションをとることが苦手な人に必要以上にコミュニケーションを取ろうとする行為
『ダイハラ』は、ダイアレクト(方言)ハラスメントのことで、方言をバカにしたり方言の矯正を強要する行為
・・・だそうだ。
だったら、いつも職場で、関西弁でおとなしい若人に話しかけ、「みんなどんどん休暇を取ろう。それが結果的に会社の生産性に寄与するんだ」と(屁?)理屈を言っている私など、全部アウト!ということだ。
オジサンが若者や女性などの弱者?に対して行うものだけでなく、若者がITスキルの低いオジサンに対して行う『テクハラ』など、上下、男女、老若などに関係なく、「嫌がらせ」全てが『○○ハラ』と命名され、常に誰かが誰かを「ハラスメント!」と糾弾する社会。
これでは恐ろしくて、何も見ざる、聞かざる、言わざるの「三猿」になるしかない。

もう何も言えない、できない
もともとは、誰もが嫌な思いをせずに気持ちよく互いにコミュニケーションできるようにと始まったはずのハラスメント運動。それが、逆に怖くてとても他人とのコミュニケーションなどできない世の中にしてしまった。安心して会話できるのはChat GPTが相手の時だけ?

心を許せるのは機械だけに?
もはや「ハラスメント!」と糾弾することによる「嫌がらせ(ハラスメント)」状態だから、これは『ハラハラ』(ハラスメント・ハラスメント)だ。
これからは、
「それは『○○ハラ』ですよ!」
と言われたら、
「逆に、それは『ハラハラ』だよ!!」
と思い切って言い返そう。
内心、ハラハラしながら・・・
ハラスメント問題の本質は相手を神格化すること?
これだけ何かにつけ「ハラスメント!」と言わなくてはならなくなった背景は、いろんな場面で、相手のことを「逆らえない、逆らってはいけない対象である」というふうに神格化し、それを前提に対応しなければいけない、と思いこんでいることが原因ではないか?
「お客様は神様です。だからどんなに無理難題を言われても、逆らわず全て受け入れなければならない」という思想がカスハラの温床になっている。客なんて、自分と同じただの労働者に過ぎないのに。

「イヤなら二度と来るな!」ぐらい客に言えればよい。お互い対等な立場なんだから。以前は、店側が客を選ぶのも当たり前だったはずだ。現状は、間違った「顧客本位主義」の弊害なんだろう。
理不尽なことには毅然と対応する、ということを社会は否定しないはずだ。一人(あるいは一社)が過剰に反応するから、それが周りに伝播して、皆が委縮してしまう。逆にみんなそろって、無理を言う方を当たり前に罰すればよい。
パワハラやセクハラの場合も同様に、「上司などの権力者には逆らえない、逆らってはいけない」という思い込みが原因だ。
個人では逆らえない(と思っている)相手に対し、みんなで「No!」を突きつける、というのがハラスメント運動の本来の目的なんだろう。だから、個人でも不当な要求にはきちんと「No!」といえるように、そして「No!」ということが当たり前の社会になれば、いちいち「○○ハラ」などと命名しなくてよくなる。
今の「ハラスメント全盛時代」は、そういう「○○ハラ」という命名が必要ない世の中へと向かう過渡期なのかもしれない。そして、いずれ「ハラハラ」の認知が高まり、行き過ぎたハラスメント運動が抑制された先に、本当の公平な社会が来る、と思いたい。