『♪いつかこの手に、つかむぜビッグマネー!』
という『MONEY』の歌詞を口ずさみながら、大学生だった私は、毎日、学校に行く代わりにパチンコ屋に向かっていた。当時、人気絶頂だった新車の「プレリュード」を買う金を稼ぐために。

学校ではなくパチンコ屋へ直行の日々
テニスサークルという「自由競争市場」の残酷さ
学生時代、私はあるテニスサークルに所属していた。男1に対して女3ぐらいの、出会いを求める男女が集まる、いわゆる軟派サークルである。
そこではテニスの練習のあと、毎回、近くのオシャレな喫茶店で「アフター」という名の懇親会?が行われる。そこで何時間もダベりながら男女の親睦を深める、というもので、テニスよりアフターの方がメイン、というのが実態だ。
そして男達は、それぞれ自分のクルマで、女子たちをテニスコートから喫茶店まで運ぶのだ。先輩や同期たちが、パパに買ってもらった新車の「ソアラ」や「ポルシェ」で乗り付けてくるのをしり目に、私はバイト代で買った10年落ちのオンボロ車(たしか8万円だった)で「参戦」していた。

一世を風靡したハイソカー「ソアラ」
そこは「完全なる自由競争市場」なので、どのクルマに乗るかは全て女子たちの「自由意思」にゆだねられる。すると当然、女子たちは「ソアラ」や「ポルシェ」に群がる。そして、そこであぶれた女子が、仕方なく私のオンボロ車に乗ることになる。
とても分かりやすい資本主義社会の縮図であるが、毎回、そんなことを繰り返しながら、私は堅く心に誓った。
『♪いつか奴らの、足元にビッグマネー、叩きつけてやる!』と。
これが私の原体験であり、資本主義社会の洗礼を強烈に受けた。そして、これが私が毎日パチンコ屋に通っていた理由だ。
ソアラやポルシェは高すぎて、どう足掻いても学生には自力で買えない。しかしプレリュードは、人気が高いにもかかわらず200万円程度で買えたのだ。
これならパチンコで勝ち続ければ手が届くかもしれない。そう思って毎日「200分の1、200分の2・・」と数えながら通い続けた。結局、パチンコの稼ぎでプレリュードを買うことは、当然ならが出来なかったが・・・

どうしてもプレリュードが欲しかった
パチンコから「相場」へ
社会人になってからは、勤め人のままで「ビッグマネー」をつかむ手段は限られる。浜省兄貴には「歌」という手段があったが、私にとってはそれが「相場」だった。パチンコ程度ではいつまでたってもビッグマネーはつかめないが、「相場」なら一獲千金の可能性はある。そこに賭けた。(詳しくは下記の記事参照)

そして、相場に負けてボロボロになった時も、カラオケで『MONEY』を絶叫しながら再び闘志に火を付け、闘い続けた。ツライ時も、『いつか、この手に・・・』と念じながら生きてきた。
そしてアラ還となり、ついに「ビッグマネー」を手にすることもないまま、その欲望も消え、「小銭」程度で終えようとしている・・・
だから私にとって『MONEY』は、いつも闘いの原動力となって支えてくれた、人生と切り離せない「ソウル・フード」ならぬ「ソウル・ソング」とも言える。
そして、私や他の浜省信者に限らず、多くの男たちが、この曲にパワーをもらって生きてきたのではないか? だから、ベタだけど、ここ「BAR HAMA-SHOW」で最初に取り上げる曲は、やはりこの曲しかないと思う。

「ドンペリ」とハマショー
日本男子に大きなパワーを与えたほかにも、『MONEY』にはもう一つ、日本にとって大きな功績がある。それは日本人に「ドンペリニヨン」という酒を最初に広めたのがこの曲だからだ(と、私は信じている)。
『♪最高のオンナと、ベッドでドンペリニヨオ~〜ン!』と浜省が日本で初めて叫んだのは、今から40年以上前の1984年のことだ。ホストクラブで「ドンペリのピンク入ります!」などという風習ができるより遥か昔だ。
以前、通っていたワインスクールで、講師の先生に「日本で最初にドンペリを有名にしたのは浜田省吾ですよね?」ときいてみたが、先生はキョトンとしていた。無理もない、先生が生まれるよりずっと前のことだから。
私も、この曲で初めて「ドンペリニヨン」という酒の存在を知り、そしてそれ以来、私の中ではこの世で最も高級な酒はずっと「ドンペリ」である。ロマネコンティより、ヘネシーより、ドンペリがナンバーワンである。
だから私は、人生の特別な場面では、ドンペリを飲むことにしている。
30代のころ、大学時代の仲間たちと久しぶりに集い、都心の高級ホテルで祝杯をあげたとき、東京クラシックで豪華グランピングをしたとき、そして・・・

残りの人生で、あと何度、ドンペリを開ける時が来るだろうか?
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