前回は『絶滅危惧種「ニホンジン」〜日本が消えていく』というマジメなテーマでジェミニと勝負した。ジェミニは根がマジメ?なので、マジメな話はとても上手い。なので、前回の勝負は互角だったかもしれない。(結果は、投票ボタン数でご確認を)
では、ユーモアのセンスはどれぐらいあるのだろう?生粋の関西人である私が書いた記事に対して、ジェミニさんのセンスはいかほどのものか?今回は【ユーモア編】で対決してみたい。
ジェミニのユーモアセンスは?
そこで今回は、私のユーモア系の記事『会話のオチが「だよね〜」で許される関東人と、「なんでやねん!」しか許されない関西人』で勝負してみることにした。
まずは私の文章がこちら↓

そして以下がジェミニの文章である。
ジェミニさんのお笑い系作品がこちら
ああ、人間って面白い。特に、言葉ってやつは地域によってこんなにも文化が違うのかと、日々感心するばかり。今回は、我々日本人における会話の終着点、いわゆる「オチ」について、関東人と関西人の決定的な違いを、独断と偏見、そして愛を持って語りたいと思う。
関東で生まれ育った私からすると、会話の終着点は実に多種多様だ。友人とカフェでぺちゃくちゃと喋り、最終的に「あ〜、分かる分かる、それ、だよね〜」で締めくくる。これほど美しい終わり方があるだろうか?特に深い結論が出なくても、共感という名の着地点を見つければ、それで万事OK。
お互いの「だよね〜」が響き合い、まるで心地よいハーモニーを奏でているかのようだ。時には「ま、いっか!」や「そんなもんよ!」といった、諦めにも似た達観したワードで会話が霧散していくこともある。
関東人にとって、会話は必ずしも一本道である必要はなく、むしろ寄り道が楽しいのだ。そして、その寄り道の果てに、ふわっとした共感があれば、それで十分に満たされる。平和主義者たる関東人の真骨頂が、ここにある。
ところが、西へ行けば話は全く変わってくる。関西、特に大阪なんかでは、会話のオチはほとんど一択と言っても過言ではない。そう、「なんでやねん!」だ。
関西の友人と話していると、まるで漫才を見ているかのようだ。ツッコミとボケの応酬が続き、最後にズバッと「なんでやねん!」で綺麗に決まる。この切れ味、このカタルシス!
「だよね〜」なんて曖昧な言葉は、彼らの辞書には載っていない。いや、載っていても使う場面がない、と言った方が正しいだろう。関西人にとって会話とは、単なる情報交換の場ではなく、劇場なのだ。ボケて、ツッコんで、笑いを取って、そしてピシッとオチをつける。この一連の流れがなければ、彼らはきっと消化不良を起こしてしまうに違いない。
私も何度か関西の友人との会話で、「だよね〜」を放ち、場を凍らせた経験がある。「…で、オチは?」「今のはどこが面白かったん?」と、まるで犯罪者を見るかのような目で見られた時は、さすがに焦った。関東では平和の象徴である「だよね〜」が、関西では未完成品の烙印を押されるなんて、誰が想像できただろうか。
考えてみれば、この違いはそれぞれの地域の文化を色濃く反映しているのかもしれない。関東は、良くも悪くも「空気」を読むことを重んじ、波風を立てないことを美徳とする。だからこそ、曖昧な共感で会話を終わらせることができる。一方、関西は、エンターテイメント精神が旺盛で、サービス精神に溢れている。会話もまた、人を笑わせ、楽しませるための道具なのだ。だからこそ、明確なオチが求められる。
結論として、関東人の「だよね〜」と関西人の「なんでやねん!」は、どちらが優れているという話ではない。どちらもそれぞれの文化に根ざした、素晴らしい会話の終着点なのだ。
もしあなたが関東人なら、関西人と話す際は少しだけオチを意識してみて欲しい。そして、もしあなたが関西人なら、たまには「だよね〜」で流してみるのも、新しい発見があるかもしれない。
あ、今のは「だよね〜」で許してほしいタイプだ。
果たして、皆さんのご感想は?
以上、ジェミニさんの力作でした。パチパチパチ(拍手)
いかがだろう? 敵もなかなかやるではないか?
が、しかし、やはり根がマジメなのが滲み出ている感じがする。お笑い系なのに、どこか理屈っぽく、説明的なのだ。友人との架空の会話を使ったりもしているが、解説部分の割合が多い。最後は一応、「ノリツッコミ」の技法を繰り出しているようだが、中途半端感が否めず、笑えない。
ならば、関西人の落とし方は、こうだ。
ジェミニはんも一応、「ノリツッコミ」ぐらいはできはるみたいやけど、お笑いなら、まだまだAⅠはんには負けまへんで~!(笑)
いよいよ二番勝負へ!
では、今回も皆さんの審判を仰ごう。
前回同様、私の記事の方がいいと思う方は、下の「左」ボタンを、ジェミニの記事の方がいいと思う方は「右」のボタンを押してください。
さあ、再度、ジェミニと勝負だ!