ある日、通勤途上で聞いていたSpotifyから流れてきた曲の歌詞が妙に引っかかった。誰の、何という曲なのかも知らないが、
「楽しむために生まれてきたんだ、僕らは」
という部分だけが突然、耳に入ってきた。前後の歌詞をちゃんと聞いてなかったので、どういう文脈の中でのフレーズなのか正確にはわからないが、とにかく強い違和感を覚えた。
「別に、楽しむためだけに生まれてきたわけじゃなくね??」と。
「アダムが神の掟を破ってリンゴを食べた罰として人間には労働が課せられた」というのがキリスト教的労働観なので、「労働は罰であり、極力、回避すべきもの。できれば仕事などせず、一生、楽しく遊んで暮らしたい」というのがキリスト教系欧米人の死生観のベースにはあるのだろう。
一方、「労働とは奉仕であり、尊いものである」という仏教的世界観が根強い日本では、労働とは、奉仕の心で世のため人のために尽くすものであって、決して「前世の悪行の罰」として、労働を強いられているわけではない、と考えられてきた。(最近は「FIRE」が流行るなどずいぶん変わっているし、そもそも「FIRE」を目指していた私が労働の尊さを説くのも変だが・・・)
一応、私は日本人なので、「人生、好きなことだけやって、楽しむためだけに生きるのか?」というと、それもまた虚しい人生だと感じる。
では、「お前は何のために生まれてきたのか?」と自分に問う。そしてその問いを突きつめていった末にたどり着いたのは、「自分が生まれてきたことの意味を問うなどおこがましい!そもそも意味などあるはずがない」という結論だ。
今の自分は、宇宙を浮遊するただの素粒子の結合の結果に過ぎず、誰かが意図して作ったものではない。ただの偶然の産物に過ぎないものに意味などあるはずがない。
もし神様なる者がいて、「お前はこの人生において、かく生きるべく、こういう人間として世に送り出す」というようなことを一人一人に対して行っているのなら別だが、神様はそれほどヒマではないだろう。
なので、偶然の結果として、素粒子の結合の仕方によっては、人間どころか、生物どころか、無機物の「便器」になっていたかもしれないのだから。
その偶然の確率の掛け算の結果として、たまたま人間として生まれ、さらに、たまたま頭蓋骨の外側(顔)の配置が良ければ「俳優」として頑張る。内側(脳みそ)の配列が良ければ「学者」として頑張る。頭蓋骨の下側(体)が強ければ「スポーツ選手」として頑張る。ただそれだけのことで、すべて「たまたま」だ。そこに意味などない。
僕らは楽しむために生まれてきたのでも、苦しむために生まれてきたのでもない。何の意味合いも予め与えられてはいない。
しかし、「意味を問う」のではなく、「意味を持たせる」ことはできる。
自分の得意技を活かすも、ムダにするのも自分次第。
たまたま備わった特性を使って、自分で意味を付与するだけ。