江戸時代の通勤はこんな感じだった?? ~徒歩通勤をして思うこと~

総帥の独り言

異常な残暑もやっと終わり、寒気が訪れるまでの快適なひと時がようやくやって来た。なので、朝、少し早く家を出て、久しぶりに会社まで歩いて出勤してみた。

徒歩通勤は、なんと贅沢なんだ!

革靴ではなく、ウォーキングシューズで(一応、ビジネスシューズ風の)

最短ルートではなく、気の向くままの道順で

表参道から青山を抜け外苑方面へ

青山霊園の紅葉や、外苑通りの銀杏にはまだ少し早いが、色々な景色や人々を見ながら

コロナ禍の最中に、三蜜回避のため初めてチャリンコで通勤したのですら人生初体験だった。それがまさか、最も非効率な「徒歩」で自分が通勤するようになろうとは!

現役バリバリの、多忙で物理的にも精神的にも常に何かに追われていた時には考えられなかった贅沢な時間の使い方だ。

ウォーキングはアイデアの源

また、朝からいつもとは違う行動で脳細胞を刺激し、同時にウォーキングで体をリズミカルに動かしていると、自然と脳が活性化してくる。だから歩いていると突然、いろいろなアイデアが次々と沸き出て来る。それらを忘れないうちに急いでスマホに音声入力する。仕事のことも、遊びのことも、そしてこのブログのネタも、いくつかはそういう時に出てきたものだ。

唐突に、やはり墓は造ろう!と思った

途中、青山霊園を横切りながら、「やっぱり墓は造った方がいいなぁ」と唐突に思った。最近は樹木葬や海への散骨が流行ったり、墓もマンション形式?になったりして、どんどん簡素化の方向で、昔ながらの墓石を立てた墓は減る一方なんだろう。

だが、自分がこの世界に存在していたという唯一の証が、この数平方メートルのちっぽけな土地と石細工だけなのだ。どんな偉人が、どんな偉業を成し遂げても、最終的に目に見える形として残せるものは、これぐらいしかないんだと。

信長であろうと、竜馬であろうと、安倍さんであろうと・・・

客観的環境より、主観的精神状態で世界の見え方は違う

今日は気分がいいので、自然と外部の世界に関心が向いている。ところが、心穏やかな日々の中で、極くたまに、仕事のことが頭の中を占領しながら出社する日もまだある。そんな日は、生き生きとした景色が、またかつての灰色の風景に逆戻りし、何も目に入ってこない。網膜には投影されているのだが、視神経を通って脳に伝わってこなくて、認識されない。

結局、物理的な客観状況ではなく、「自分の精神が置かれている状況」という極めて主観的な要素によって、同じ環境下にあっても全く別物に写るということだ。

江戸時代のお侍さんの通勤はこんなかんじだった??

4kmほどの道のりを約1時間かけて歩き、会社に到着する。1時間も歩いて出社すると、会社に着くと既にひと仕事終えた感じになる。

そして、会社の近くにあるお城の石垣を見ながら歩いているときに、ふと思った。

徒歩通勤?が当たり前であった江戸時代のお侍さんの出勤、すなわち「お城への登城」とはこんな感じだったのだろうか?と。1時間まではかからないとしても、城下町から山頂のお城まで、それなりの距離を、馬か、駕籠か、徒歩で正装をして登城する。

当時の「お城」である「会社」へ、「羽織袴」を「スーツとネクタイ」に変えて、お勤めに向かう。

何百年経ってもやってることは今も昔も変わらない?

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