噂には聞いていたが、これほどとは・・・
遅めの夏休みで、親父の墓参りを兼ねて京都に立ち寄ってきた。そして空き時間に、「渡月橋」から「天龍寺」を抜け「竹林の小径」へ、という典型的な嵐山の観光コースを足早に巡ってみた。するとそこは、世界中の人々が行き交う「シルクロード」?と化していた。
平日の昼日中にもかかわらず、渡月橋の上も、細い竹林の小径も、外国人観光客で溢れていた。日本人は多く見積もっても3割以下、たぶん2割程度だろう。あとは欧米系、中東系、アジア系の順番で外人が7~8割を占める(あくまで印象論だが)。日本の古都が「万国博覧会」状態だ。
学生時代の4年間を過ごした古き良き京都の姿はもはや望むべくもなく、バスも地下鉄も嵐電も、どんな細い路地にも、ガイジン、ガイジン、ガイジン、だ。大学生の頃のように、秋の京都で静かにもの思いに耽ろう、などという幻想は脆くも打ち砕かれた。
例えば、私をはじめとする多くの日本人が抱くかつての「竹林の小径」のイメージはこうだろう。
それが現在の姿はこうだ。
世界中の様々な人種の人たちがここに集まり、入り乱れ、自分が素晴らしいと感じる景色の前で、それぞれ足を止め、思い思いに写真を撮っている。
写真を撮るときの掛け声も様々だ。私が聞き取れたのは、中国人の「イー(1)、リャン(2)、サン(3)!」だけだったが(思わぬところで麻雀が役に立った!)。
別に外国人を排除すべきだ!とは思はないが、なぜこれだけの外国人が京都をはじめとする日本に押し寄せて来るのか? ということについては純粋に興味がある。何が彼らをここまで駆り立てるのか? 単に一過性の観光ブームなのか? それとももっと深い別の要因があるのか?
世界の中心は自分たちであり、自分たちの文化・文明が人類の中で最も優れている、と恐らくは意識の根底では考えているであろう欧米人たちが、遠い遠い東の果ての国まではるばるやってきて、そこにあるモノ・コト・ヒトに感銘している。「黄金」はないのに。
ハード面では、神社仏閣などの美しい造形美や、ワビサビの世界観で構成された庭園、あえて薄味に仕立ててある京料理とそれを引き立てる和食器。そしてソフト面では、最近は劣化したとはいえ、ルールやマナーを守る文化と「おもてなしの精神」、そしてそれらを背景としたゴミの少ない街並みや治安の良さ、などなど。
独自の高度な文明と文化が、閉ざされた極東の小さな島国のなかで永い年月をかけて独特の進化を遂げたガラパゴス島のような存在。13世紀にマルコポーロが『東方見聞録』の中で紹介した「黄金の国ジパング」。
令和の現代においては、SNSによって世界中の人々にその魅力が拡散され、その存在と価値に多くの人々が気づいてしまった。そしてインバウンド政策やコロナ禍の収束、さらに円安も相まって、世界中のありとあらゆる国々から日本を目指して人が集まってくる。かつて「ジパング伝説」に吸い寄せられてコロンブスやマゼラン、バスコ・ダ・ガマたちが大海原を渡ったように。令和の時代に、「黄金」よりも価値あるものを求めて・・・